忘れない 忘れられない 忘れたい 様々な東日本大震災
2011年3月11日14時46分 マグニチュード9.0の地震発生
宮城県牡鹿半島(おしかはんとう)の東南東沖を震源にした地震が、2011年3月11日14時46分に発生しました、観測されたマグニチュードは9.0。福島県 会津若松市では震度5強の地震が襲いました。この地震波は地球を5周したとされています。正式名称は「東北地方太平洋沖地震」。災害を総称して「東日本大震災」。地震の後に起こった火災、津波、原発事故により被害は拡大しました。
3.11の記憶 忘れられない 忘れたい 様々
皆さんはその時、どのように過ごされていたのでしょう。その直前まで、平穏でいつもと変わらない時間を過ごされていた方が大半でしょう。「思い出したくない」という方がいるのも承知で、このような問いかけを行った事には陳謝いたします。災害の教訓を忘れず、次の災害に備えることも大事と思えばこそです。ただ、「忘れたい」という方には「無理に思い出さず」穏やかな日があることを願ってもいます。何事によらず忘却はとても優しい。辛く苦しい出来事も、遠ざかり薄れていく記憶の中で痛みが和らいでいきますよう。
中学校の卒業式の日
この日の我が家は、長男の中学校卒業式の日。緊張した面持ちの子供達が式を終え、ホームルームを終え、中学生の最後の時を惜しむように学校で多くの子供達が最後の時間を過ごしました。晴れやかな、軽やかな声、笑顔。地震発生時、私達が家族で過ごせていたのは幸いでした。下の子供達も無事に帰宅してきました。電気も水道も使えて、まだ私達は平和でした。
15時37分頃 福島第一原子力発電所へ津波襲来
各地に津波が押し寄せており、ニュースでは町や車が流されていく様子が伝えられました。この時、福島第一原子力発電所へも津波が襲来。対策想定高さ海抜6.1mに対し、押し寄せた津波は13m。敷地高さ(10m)を超えた津波は、この敷地より低い場所に設置されていた非常用ディーゼル発電機やバッテリー、電源盤を水没させ、全ての電源機能が喪失しました。注水の止まった圧力容器内の水は蒸発し続け、約4時間後に燃料が水面から露出、炉心損傷が始まっています。20:50 福島県から、福島第一原子力発電所の半径2km 圏内の住民に最初の避難指示。21:23 政府から、福島第一原子力発電所の半径3km 圏内の住民に避難指示。各地で深刻な被害が続く中、福島第一原子力発電所は刻一刻と事態が悪化していきました。会津若松市と福島第一原子力発電所の距離は約120km、その間には奥羽山脈もありますが、最悪が何かも見通せず、不安な夜を過ごしました。
↑の写真は停電で暗いわけではありません。停電したエリアは信号も街灯も点きません。
3月12日 15時36分 1号機の原子炉建屋水素爆発
地震発生の翌日、5:44 政府から、福島第一原子力発電所の半径10km 圏内の住民に避難指示。15:36 福島第一原子力発電所の1号機の原子炉建屋水素爆発18:25 政府から、福島第一原子力発電所の半径20km 圏内の住民に避難指示。予断を許さない状況が続く中、14日には3号機原子炉建屋が水素爆発、15日には4号機原子炉建屋が水素爆発と続きます。会津からの避難を考えた人も多く、実際に避難した人もいます。「子供達だけでも」と考えなくはなかったのですが、みんなで一緒にいることにしました。会津はまだ安全でしたが、この時の不安の中には、将来「福島の子」と差別を受けないか、というものもふくまれていました。
他方、会津若松市に避難されてきた人達が次々と到着。体育館、公民館が避難者の受け入れの為に使われ、周辺地域の住民が交代で炊き出しに行きました。東日本全域で被災した為、会津も物流が止まり、ガソリン、食料品、日用品が無くなっていきます。
新潟に行けばガソリンが買えるという話もありました。日用品や食料も買えるかもしれませんが、ガソリンが買えずに戻ってくることもできないという事態は避けたい。悩んでいるうちに、行けるだけのガソリンも無くなりました。そのうちに、どこかのガソリンスタンドにガソリンが届く、届いたという情報が市民の間で流れ、ガソリンスタンドへの長蛇の車の列ができました。自分も、利用した事のないガソリンスタンドで給油することができましたが、順番待ちの間、給油ができるかは不明で、自分の直前で終了しないように願ってました。毎日、大きな余震も続いていましたが、やがて慣れ始めた頃から、余震の数も減っていきました。会社や学校も再開され、物流も徐々に復旧。
しかし、福島は長かった。仮設住宅が建てられ始めましたが、体育館での避難生活は場所によっては長期におよび、体育館を使用していたスポ少活動などは自粛になりました。夏が来て、秋が来て、冬になり。避難されてきた方達にとって、会津の冬は厳しくて大変です。また春はきましたが、福島全域で農産物の放射能検査が開始。震災時、福島県にいた18歳以下の子供達を対象に甲状腺検査が開始。月日は過ぎ、2019年5月7日。全町避難となった大熊町の役場は新庁舎で業務再開。大熊町から沢山の人達が来ていた会津若松市は、大熊町の人と共にこの日、東日本大震災の1つの区切りをつけました。
東日本大震災への沢山の支援、メッセージ
当時、世界中の人々が息を呑んで東日本大震災の様子を知ることになりました。痛ましい映像や報道、特に自分が訪れた事のある地域の被災には胸が詰まりました。会津若松市は福島第一原子力発電所からは十分に離れていましたが、それでも多くの友人知人からの安否確認があり、日用品を送ってくれる人もいました。人と気持ちが繋がることで元気が湧きます。世界中で悲鳴が上がり、いてもたってもいられない気持ちが私達に届いていました。
故 アーシュラ・K・ル=グウィンさんが日本の翻訳者のAkemi Tanagaki(谷垣さん)に応えられて、日本に住われる方へのメッセージが公式サイトに載せられました。谷垣さんからその話を教えてもらったつれあいは、ツイート(現在のX)し、多くの方にル=グウィンさんのメッセージを伝える事ができました。その後、谷垣さんの日本語訳を、つれあいが当時メインにしていたサイトに投稿しました。
伝えたい・残したい ル=グウィンさんからのメッセージ
わたしの翻訳者で友人のアケミ・タニガキ(東京在住)に短いメールを送った。返ってきたメールはこういう書き出しだった。「心配してくださってありがとう。わたしは大丈夫で、家族もみな、大丈夫です。だけど、とても悲しくて、無力感と心配でいっぱいです」 そして、そのメールには、日本のあなたの読者にあてた簡単で短いメッセージを公式サイトに載せてもらえないか、と書いてあった――「非常につらい目にあっている人たちにかける言葉を見つけるのが、とても難しいのは、よくわかっていますけれども」 そのとおりです、アケミさん。それは難しい。不可能だと言っていいぐらい。でも、せっかく頼んでくれたのだから、がんばってやってみます。日本の読者の皆さんへ わたしたちとあなたがたの間には海があります。でも、その海で、わたしたちとあなたがたはつながっています。 日本を襲った大津波は海を旅しながら、だんだん弱くなり、アメリカの西海岸に達しました。それはここではほとんど害をなしませんでした。けれども、あなたがたの悲しみと苦しみが大きな波となって、その小さな波とともに、わたしたちに届きました。 こちらではたくさんの、とてもたくさんの人が今、あなたがたのことを考え、あなたがたのために泣き、最悪の時が早く過ぎ去るように祈っています。そのことをどうか知っていてください。 このように大きな喪失の悲しみ、苦しみ、不安のさなかで、日本のごくふつうの人々が示す静かな勇気に、わたしは言葉にできないほどの賞讃をおぼえます。あなたがたのしっかりとした、忍耐強い顔を見ると、その美しさに打たれます。ひとりひとりの顔に目を向けると泣けてきます。あなたがたに力がみなぎり、よりよい明日への希望を胸に抱けるよう願っています。 愛をこめてアーシュラ2011年3月14日(翻訳:谷垣暁美)
– 引用(引用元の許可済み) –
被災地ばかりではない日本中で、二次災害を防ぐ強い忍耐が示されました。多くの人達が自制心を持って事態に対応、助け合いました。挫けそうな状況にも立ち上がって行動しました。ル=グウィンさんは、そんな日本人を称賛してくれました、共に辛く深い悲しみの中から。災害の教訓もそうですが、遠い地から心配し声をかけてくれた人達、支援をしてくれた人達が沢山いたことも、忘れずにいたい事です。
当時、小学生だった娘も無事に社会人となっていますが、福島第一原子力発電所の廃炉作業はまだ道半ば、福島の東日本大震災はまだ続きます。
アーシュラ・K・ル=グウィンさんは「闇の左手」「ゲド戦記」等の作者。ヒューゴー賞を5度、ネビュラ賞を6度受賞。「西の善き魔女」と称されるSF界の巨匠、世界中にその作品群は影響を与えました。2018年1月22日死去。深い感謝の気持ちとご冥福をお祈りいたします。
「あいづ くらし」は、会津のWEBライターです。
2025 東日本大震災「3.11特集」
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